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夏蒲団

暁の足にさぐるや麻布團 (青木月斗)

夜中に剥いでしまった布団を、明け方、肌寒さに夢うつつながら足でさぐるんですね。

今日はいくらか過ごしやすかったですが、毎日ムシムシ寝苦しい夜が続いています。私は蚊帳を吊って(今はテントのような形の蝿帳みたいな蚊帳です)寝ているので、よけい蒸し暑い。それでも明け方はいくらか涼しく、目覚めてしまいます。ただ、布団は足でさぐるまでもなく、お腹の辺りに巻き付いていますが。
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実梅

落ちてゐる実梅の一つ落着かず  (京極杞陽)

六月もそろそろ終わり。青梅はすっかり熟し、黄色い実梅となってボロボロ落ちています。今も時折、裏庭で梅の落ちる音がします。ふと、山本周五郎の『落ち梅記』(『町奉行日記』所収)なんて思い出したり。

落ちた梅はもう、梅干しとか梅酒とかにはできませんが、ジャムには出来ます。ただ、いつ落ちたか分からないようなのは傷んでいるのでやめたほうがいいです。

釣鐘草



蟻の寄り釣鐘草のうつぶせに (加舎白雄)

地面間際に咲いている釣鐘草に、蟻がつぎつぎと登ってきて塊でも出来ているのでしょうか。

キキョウ科の草で、蛍袋ともいいます。花の中に蛍を入れて遊んだことからそう呼ばれるようになったとか。実際やってみたことはありませんが、なんとも風流な遊びですね。

早苗

手ばなせば夕風やどる早苗かな (芭蕉)

今日は夏至。雨も降らずにムシムシしてて、お日様は雲の向こうでジリジリしてて、それでも風が吹くとちょっと涼しい。そんな一日でした。帰宅途中、田ん中の道を自転車でぼんやり走っていたら、まだ背の低い稲の苗がサワサワと風に吹かれていてきれいでした。

紫陽花



あぢさゐの 八重咲く如く
(や)つ代にを いませ我が背子
見つつ思(しの)はむ (橘諸兄)

今日は万葉集から。旧暦の5月11日つまり今ぐらいの時季に、左大臣の諸兄さんが、右大弁の家の宴に招かれて詠んだ歌です。普通紫陽花は4~5枚の萼片をつけますが、当歌では八重。上の写真のような感じでしょうか。ちなみに「紫陽花」というのは漢詩をもとにした後世の人による当て字で、中国では違う花をさすようです(ライラック?)。

◆訳:八重に咲く紫陽花のように幾年も人生を重ねて下さいな。私は花を見てはあなたを思い出すでしょう。
◆解説:「やつ」は「八っつ」のことで、数多いことを意味します。
◆参考文献:『岩波古語辞典』『万葉集―全訳注 原文付 (4)』『日本の樹木』など

蝸牛

蝸牛のかくれ顔なる葉うらかな (蕪村)

「蝸牛」をカタツブリと読むかデデムシと読むか、調べてもよく分かりませんでした。まあ、葉っぱの裏で人目から隠れたつもりでいる(でも実は丸見え)っていうユーモラスで愛らしい場面なので、「デデムシ」のほうがいいような気もしますがどうなんでしょう。

そういえば最近カタツムリを見ていません。小学生の時は取っ捕まえて花だかナッパだかを入れた水槽のなかで飼ったものです。上級生の子が「殻を取ったらなめくじだ」などと言ってましたが、殻の中にはちゃんと内臓?が入ってます(もちろん取ったことはないですよ)。なめくじとは違うのでかわいそうなことはしないでくださいね。

夏椿

夏椿

沙羅双樹しろき花ちる夕風に人の子おもふ凡下のこころ (与謝野晶子)

◆訳:沙羅双樹の花が散る夕方の風にも、俗人の私はあのかたを想ってしまうのです。
◆解説:お釈迦様が亡くなったとき、鶴のように白く枯れたという沙羅双樹の木。なんですが、沙羅双樹は日本には生えていませんし(一部植物園などで栽培されているようですが)、花は薄い黄色。おそらくは、混同されがちな「シャラノキ(夏椿)」のことを歌っているようです。夏椿は白くて薄い花びら、散るというより落ちる感じです。
◆参考文献:『与謝野晶子歌集

今日も夏椿の花は咲き、散っていました。
散れば実はなるし、また別の花も咲きます。
明日も明後日も、来年も。

くちなし



今朝咲きし山梔子(くちなし)の又白きこと (星野立子)
くちなしの日に日に花のよごれつゝ (星野立子)

まだ雨脚の弱かった出勤前、お庭で一重のクチナシが真っ白に咲いていました。帰宅したら写真に撮ろうと楽しみにしていたのですが、夕方の強い雨にしおれてしまっていました。濁りない白ゆえにちょっとの傷みも目立つようで、地にも落ちず雨に打たれ続けたクチナシは、日が経つにつれ痛ましい姿となってゆきます。

あの強い香りは好き嫌いがありましょうが、私は好きです。湿気の多い夜に似つかわしい香りです。
実は黄色の染料として使われます。古典和歌では花としてではなくて、黄色い衣の染料として、また駄洒落から「口無し(返事をしない)」として詠まれることが多かったようです。

◆参考文献:『歌枕歌ことば辞典』など

浮雲のいさよふ宵の村雨に追ひ風しるく匂ふ橘 (藤原家基)

梅雨に入ったというのにちっとも雨が降らないのであまり実感できないかもしれませんが、雨に濡れると花とか葉っぱは匂いが強くなりますね。

◆訳:雲がどんより垂れ込めた村雨の宵、追い風は花橘の香りでむせかえるほどだ
◆解説:古今集以来の古典和歌において、夜に出かけるって事はほとんど恋の場面であると言ってもあながち間違いじゃないと思います。そのあたりはあいまいにしてますが、恋の存在を匂わせることで歌に深みが出るわけです。
◆参考文献:『千載和歌集

五月雨

五月雨の空なつかしく匂ふかな花橘に風や吹くらん (相模)

梅雨の頃はもうじめじめじめじめ何をやる気も起きません。
昔の人は、ちょっとした花の香りにもなぐさめられたのでしょうか。私もちょっとした楽しみとか喜びとかを見つけて自分を奮い立たせようと思います。…今日は特になかったけど。

◆訳:この梅雨空の下が懐かしい匂いでいっぱいなのは、花橘に風が吹いているからかしら。
◆解説:なつかしく、というのは古今集にある「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」を意識しての事でしょう。花橘はミカンの仲間で、この時季に良い匂いの白い花を付けます。内裏の紫宸殿前の「右近の橘左近の桜」でもおなじみです(雛壇飾りにもあります)。
◆参考文献:『後拾遺和歌集

麦の秋

麦の秋さびしき貌の狂女かな (蕪村)


麦というのは、秋ではなく五月中旬から七月頃に熟すんですね。なので、麦の秋とか麦秋とかいうと、この時季の事をさします。夏の風景の中でそこだけ黄熟した麦は一種異様で、狂気を孕んでいるようでもあります。そんな景色を見た蕪村には、狂女の中にある一片の正気が見てとれたのでしょうか。



畦道を行く子風押す麦の秋 (あげまき)


えー、鬼も十八番茶も出花。わたくし18の乙女の頃、某飲料会社の新俳句なるものに応募して見事?一番下の賞にひっかかった、思い出の句でございます。幼い頃に亡くした祖父が俳句をたしなんでいた事もあり、自分も詠めるんじゃないかと勘違いして、当時は自信満々だったんですが今見ると訳が分からない句です。だいいち、子どもが風を押すんだか風が子どもを押すんだか分からない。今見返して自分も分からない。実のところ、麦の秋という言葉を使ってみたかっただけなんですね。

あやめ草

昨日までよそに思ひし菖蒲草(あやめぐさ)今日我が宿のつまと見るかな (大中臣能宣)


今日は旧暦の五月五日、端午の節句です。菖蒲の節句とも言います。

ちなみにここでの「菖蒲」はアヤメとかハナショウブとは別物です。


平安時代頃には、根っ子ごと引っこ抜いてきた菖蒲で屋根を葺いたり、根っ子の長さを競ったり、葉を袖や枕に引き結んだりと、菖蒲が大活躍の日でした。葉に香気があるので、邪気を払うと考えられていたようです。今でも菖蒲湯に入ったりしますね。


◆訳:昨日まで無関係と思っていた菖蒲なのに、今日は親しみを覚えてしまうなあ

◆解説:「つま」には、菖蒲を葺く軒の端(つま)と、妻とを掛けています。‘気にもとめていなかった相手が今日は何だかとても素敵に見える’という恋の歌っぽく詠んでいるわけです。

◆参考文献:『拾遺和歌集 』『歌枕歌ことば辞典 』など

花いばら

愁ひつつ岡にのぼれば花いばら (蕪村)

花いばら故郷の路に似たるかな (蕪村)


毎年、小さめの白い花をつけた野ばらの株を見ると、季節は夏に入ったんだなとしみじみ思います。今はもう散ってしまっているんですが、葉の濃い緑も株全体のボコっとした姿もちょっと野性味があって、水を張った田んぼの風景に妙に合っています。


岡にのぼれば、と言えば蕪村より先に『知床旅情』の「♪飲んで騒いで丘にのぼれば~」を思い出してしまうあたり、愁わしいというか憂わしい我が身でございます。

はじめに

5年ほど「和歌の総角」というサイトをやっています。

サイトでは古典和歌を紹介しているんですが、もともと和歌だけでなく俳句も唱歌も好きで、でもなかなか触れる機会がなかったので、ここでちょっとずつ、書きとどめていきたいなと思っております。

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